[書評]先進国の貧困の定義って?私立学校にも貧困はある。「弱者の居場所がない社会」
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以前、有名ブロガーが紹介していたおすすめ本のうちの一冊。
かなり衝撃的!
一気に読んでしまいました。
内容の多くは問題提起です。
とても根が深い問題なので解決策を考えていくのはかなり難しいように感じました。
「社会的包摂」という言葉を知っていますか?
「社会的排除」に相対する概念で、平たくいえば「社会に包み込むこと」
「社会的排除」は貧困とは異なる。
貧困が、「生活水準を保つための資源の欠如」を表すのに対し、
社会的排除は「制度や仕組みや人間関係、物理的な場所から追い出される」ことである。
「絶対的貧困、相対的貧困」という考え方
食べ物にも事欠いており、衣服もボロボロであるといった発展途上国や終戦直後の日本の状況であるという状況を「絶対的貧困」という。
しかし、先進諸国の大多数が用いている貧困の概念は「絶対的貧困」である。
「相対的貧困」は、その社会のほとんどの人が享受している「ふつうの生活」を送る事ができない状態と定義される。
「ふつうの生活」は、食事、衣服、住宅、就労やレクリエーション、周囲との交流、監修といった事が含まれる。
実際、相対的貧困の状況にある生徒は修学旅行に行けなかったり、選択授業を実習費用の有無で選んだり、友達づきあいやお昼ごはんを食べることすら満足にできない状態。
日本人は他国より「生活に必要なモノ」を少なく見積もりがちだそうです。
食べることに困ったことがありますか?
国立社会保障、人口問題研究所が行った2007年の調査では、
「過去1年の間に経済的な理由で家族が必要とする食料が買えなかったことがありますか?」
という質問に対して8世帯に1世帯が食料が足りなかった経験をしたと答えている。
より顕著に食料の困窮がうかがわれるのは、単身世帯やひとり親世帯である。
社会的排除は、下位層だけではなく上位層にとってもよくない結果を生む
格差が及ぼす悪影響についての研究も進んでいる。
格差が大きい国に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下方に存在する人は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることになる。
人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。
その結果として社会全体の人々の健康が損なわれたり、死亡率さえ高くなったりする。
震災の教訓から
震災など自然災害は、直接的な被害に加えて、人間社会が作り上げたシステムの被害が、後に二次的、三次的に発生する。
阪神淡路大震災から10年近く経っても、収入が減ったと答えた人が多い。
被災者の心の図式を表した復興曲線では、被災者の心理状況が2年で上昇するが、3年後を超えたあたりに急降下し、震災直後に近い落ち込みを見せる。
これを復興の二番底と呼んでいる。
まとめ
日々暮らしていく中で、他人事と思えない自分がいます。
私立学校って「お金持ちが通う」イメージがありますよね。
でも、それは中高一貫校だけ。
都内のとある中高一貫校は、「授業料無償化」に値する家庭がほとんどないそうです。
高校だけの私立学校は、入学者のほぼ全員が公立中学校の生徒です。
「公立高校」の椅子取りゲームから脱落した生徒が仕方なく入ってきます。
公立高校では、すべての公立中学校の生徒を受け入れるだけの定員がないのです。
東京では、2人の1人が私立高校に通わざるを得ません。
そのため、
「お昼を食べずに我慢」
「十分な交際費がなく、帰宅時に軽食を一緒に食べられない」
といった状況をよく見かけます。
クラスの三分の一がシングルマザー、数人が生活保護、非課税世帯の年もあります。
たまたま、私は両親が揃っていて、家庭には子どもを大学まで通わせるだけの経済力があって、そのおかげで正社員となり自分の楽しみのために使うことができる時間やお金が多少ある。
もし、親の経済力がなかったら?
非正規雇用で貧困にあえいでいたら?
職場の生徒も、経済的な理由から学校を辞めざるを得ないことも。
今の職場にいなかったら、貧困も自己責任、今の私は努力の賜物だと思っていたかもしれないなぁ。
社会的排除という言葉にアンテナが立った方、よかったらぜひ読んでみて欲しいです。
弱者の居場所がない社会
ではまた。