[セミナー]福岡『学び合い』フォーラムで苫野先生の講演を聴く。「一人も見捨てない」の意味を再確認。
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今年も8月3.4日に行われた『学び合い』フォーラムに参加してきました♫
福岡は、修学旅行の引率で九州に訪れて以来、ほぼ20年ぶりにお邪魔しました。
食べ物も美味しいし、人も優しいし素敵な時間でした!
過去に『学び合い』フォーラムに参加した際の記事は以下の通りです。
『学び合い』とは?
二重かぎかっこのついた『学び合い』とは、上越教育大学の西川純先生が提唱した考え方です。
『学び合い』とは
『学び合い』は「クラスの全員が、20年後、50年後も幸せに生活できるようになることを目指す授業」です。
上越教育大学の西川純教授が提唱し、全国で実践されています。『学び合い』の定義
下記の学校観・子ども観・授業観に基づいた教育を『学び合い』と呼びます。学校観 学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場である
子ども観 子どもたちは有能である
授業観 教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきである
『学び合い』wikiより
セミナーなど、一般的には教科(コンテンツ)を中心にして行われることが多く、家庭科の研究会に長らく参加していたこともありました。
そうなると多様性とは程遠いメンバー構成になってしまうので(濃い話をするにはいいのかもしれないけど…)最近はコンテンツ寄りの宿泊セミナーには参加してないかな。
何年セミナーに参加しても、『学び合い』を実践できているわけでもないんですけどね〜。
「メンバーの2、3割が課題の内容を理解している」
という状態は、低学力の高校では無理ゲー(汗)。
『学び合い』福岡フォーラム参加記録
今回の一番の目玉は、2日目の苫野一徳先生の講演と、パネルディスカッションでした。
2日目の飛行機を早めに取ってしまったのが悔やまれますぅ〜〜〜。
『学び合い』福岡フォーラム1日目
今回の福岡フォーラムは、午前10時からの開催。
全国で講演会や一人芝居をされている福永先生の『学び合い』一人芝居から。
主人公は、カリスマ教師を目指している小学生教師。
家庭訪問の場面から始まります。
勉強が苦手なお子さんの家庭訪問後、スマホを忘れたと家に戻ろうとしたら…家の中から叱責する母親の声と、勉強ができないことの辛さを訴える子どもの泣き声が聞こえてきます。
その話を聞き、一人も見捨てず教室の子どもたちを救うために、同僚の先生から『学び合い』の話を聞き実践を始めます。
同僚からの奇異の目、保護者からのクレームなど困難はありながらも、子どもたちが変わっていく様を見て涙が出てくるというストーリー。
勉強ができない子どもの声は、私もホロリときてしまいました。
その後、実際の『学び合い』の授業を動画で見たあと休憩となりました。
初日の昼食を、参加している友人と食べようとしていたところ、路上で声をかけてきた女性2人と昼食を共にすることになりました。
フォーラムでは、必ず近くの人と話したりしてコミュニケーションをとる時間があります。
『学び合い』をやってみたい興味があるという人は割と周囲の人に声をかけるのも苦ではないのかもしれません。
しかも、話しかけてきてくれた女性はそれぞれ教員ではなく、教育委員をしていたり、外国人エンジニアの転職サポートをしている方でした。
各教科の研究会に参加すると、教科の先生と教科書会社の人と大学の先生くらいしか参加していないことが多いので、バラエティ富んだメンバーが参加するというのは『学び合い』フォーラムの大きな特徴ではないかと思います。
お一人は宮崎県の地方で、子どもが集まれるような居場所作りをされている方。
苫野先生の本を読んでこれだ!と感じ大学に電話し、苫野先生が30分ほど時間が作れるということだったので、そのためにわざわざ直接会いに行ったことがあるそうです。
もう一方は福岡で読書会を開きたいと考えていらっしゃる方でした。皆さん、エネルギッシュですね〜!
午後の分科会は、福岡の小学校教師である岡田先生の授業の見取りに参加しました。
ベテランの先生方は、『学び合い』の授業で生徒の様子をどう見ているかがよーーーくわかりました。
「一人も見捨てない」
を体現するとはどういうことか?
単元は算数。少数と分数の計算で、説明する課題がイマイチ理解できていない生徒がわかるようになるまでとことん付き合う生徒。
説明するために、仲の良い友人だけではなく多様なクラスメイトと関わろうとする生徒。
課題解決をするのに、仲良しだけでは解決できない場合のほうが多く、その場合は理解できている生徒、できていない生徒と関わる様子が見られました。
岡田先生も、もともとはカリスマ教師を目指していたが、ここ10年ほどは今まで築き上げてきた方法が通用せず退職も考えておられたとか。
それが、『学び合い』に出会うことで、卒業式や修学旅行などの行事だけでなく普段の授業でも生徒の力を目の当たりにして感動することがよくあるそうです。
こんなふうに、子どもたちが仲間を一人も見捨てない教室ってどうすれば実現可能なのかな…って思っちゃいましたね。
『学び合い』福岡フォーラム2日目
まずは、苫野一徳先生の講演から。
講演については、ノートPCでメモを取ったのでよかったらご覧ください。
苫野先生の本は、「教育の力」「子どもの頃から哲学者」など読んでいたのですが、直接、例えなどを用いてお話してくださると苫野先生の考え、実現したいことなどよーーーーく伝わってきました。
やっぱり、直接お話伺うの大事だな…。
話が脱線してもわかりやすいし、ちゃんと戻るし、かなりの切れ者とお見受けしました。
こういう会に来られない人のために、YouTubeでチャンネル持ってほしい…。
と思ったら、「苫野一徳 YouTube」で検索するといくつかありますね。
いやいや、勝間和代さんくらいのライトなおしゃべりでいいので作ってくれたら本も売れるし学校づくりも加速するんじゃないかと本気で思ってます。
苫野先生の教え子で、今は教職についている方が司会・ファシリテーターを務めてくださいました。
さて、以下はメモです。長いです。すみません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
熊本大学の研究室は、外部の学生が来ることが多い。
同質性の高い学部ではあるが、自分のゼミは中高生から40代まで多様性が確保されていると思う。なぜか自転車で来てくれる(笑)。
そもそも教育はなんのためにあるのか?
自由はいかに可能なのか?
現在、幼・小・中「混在」校(一環ではない)の軽井沢風越学園を作っていて、設立準備に携わっている。
軽井沢風越学園では、探究をカリキュラムの中心にしていこうと考えている。
4〜6割を探究に。自分たちで問いを立て、自分たちでたどり着くような学びをしていきたい。
そのため、建設中の学校ではライブラリを大きく真ん中に据えている。
教育を語る際には、「一般化のワナ」に陥らないこと。
過去の自分の経験から語りがち。
「学校での勉強が辛かったので、学校は子どもたちを苦しめるだけのものだ」
過度に一般化してしまうワナに陥ってしまい、教育議論を非常にしにくいものにしてしまう。
人間はそもそも経験からものを考えることしかできないのですが、自分は一般化していないかと問いながら話すことが大事。
学者こそ、一般化のワナに引っかかってしまう。
「哲学やる人間は頭がおかしい」とか「なんで生まれたんだ」みたいな話。友達もいないし。
私は、便所飯のパイオニア!25年前から中学でトイレ弁当を始めていた。学校生活をサバイバル!生きづらい、周囲に馴染めない人間だった。
そのことを周囲に言ってやりたいという気持ちがあった。批判ばっかりしている。非建設的だなぁ。
そして、みんなが納得できる良い教育はなんだろうと問題意識を感じていた。
問いを立てるときには、問い方のマジックに引っかからない。
「AかBか?どちらかが正しいのではないか?」
これでもマジックに引っかかる。
二項対立は、
「教育は子どものため?社会のため?」
このマジックは、二項対立になり手を上げてもらうと2つしかなくなってしまう。
これは、問い方のマジックだと思ってしまう。本当に問に値するものを考える。
「あっちもこっちも納得するより良い考えを出そう!」
教育は問い方のマジックに溢れているので、これは問いの立て方を変えないといけないのでは?という思考にしたい。
理想、当為(shoud)主義と相対主義のアポリア(難問)
「これが正しいからこうすべき」
信念の対立が教育界にはびこっている。
ヘーゲルによると、徳の騎士(字、あってないかも)良かれと思ってやっている。
だからこれに従え、信念の人、正義の人は他者を攻撃する恐ろしさがある。
ロベスピエールは、「自由・平等・博愛」のために何千人も断頭台に送り込んだ。
とてもいい人が信念によって他者を攻撃する。
現場でも、教育、教育哲学では逆に相対主義が猛威を奮っている。
あらゆるものを相対化する。
「絶対正しいものなんてないんだよ!」
これが相対主義。
教育の哲学の世界も巻き込まれている。
「あなたの考えも絶対に正しいとは言えないでしょ?」
相対化の対策もある。
帰謬(きびゅう)法と言われ、どんなことを言われても論破できる。帰謬法返しもある。
「カラスは黒い」
カラスは人間に認識できない紫外線が見えていて、お互いを黒とは見ていない。
黒かどうかはわからないよね。人間とその他の生き物と相対化していく。
あなたの黒と私の黒は違うよね、という言い方もある。
やりすぎると本当に虚しい。
良い教育って?って話をしにくくなる。
教育の哲学の意味がない。
土台が総体化されてしまったら、意味がない。
そこで、欲望相関性の原理を利用する。
「物事は、絶えず私の欲望とと主に相関的に現れる」
絶対に正しい先生はいない。ただ、この学校はいい学校だ。
ビールの絶対的価値などはないが、その時々に、その人に対する価値として現れる。
あらゆるものは疑える。それは疑っているこの私が確かである。
2500年の哲学の歴史を見ると、歴史に残るのは総体化を打ち破った新しい考え方。
ちゃんと自分で考えて自分で解く!という風にする
疑えないものが2つある。個的直観と本質的直感。
私が水と確信したら疑えない。
夢かもしれないということだけ疑える。
見えていることは疑えない。
水という意味を持って見えていることは本質直感、疑えないから。
それぞれがそれぞれの確信をもっているので見つけていこう。
教育に応用すると、
「正しい学校はない、ただ、これはいい学校だと直感された」
こういう共通確信を見つけていこう。
「絶対に正しいことから共通了解へ」
情動所与も疑えないものもある。
音楽を聴くと、情動性が喚起される。懐かしいなぁ、ワクワクするなぁ、寂しいなぁと、情動性を伴って世界を認識している。
「恋をしているときは、空が青い」
欲望に相関的に景色が見える。
いい先生、いい学校が立ち現れてくる。
あなたの欲望からすれば、このような教育がいいって言えるんですよね。
いじめをしたような生徒を退学にする、教育論として絶対に正しいか?
あなたの欲望、関心からすると退学にする理由がわかるよ。
お互いの欲望や関心から良い教育を探ることはできますね、となる。
信念の対立を解きほぐす考え方。
相手の欲望を知ることができれば、お互いの次元まで遡ることがとても大切。
その教育論の意味がわかる。
私の欲望、関心からすると意味があるんです。
そういうことだったのか、もっといい考え方を出していこう、となる。
あらゆるところで使える。
ただ、夫婦喧嘩だけは使えない。妻には手の内を知られている、家族は要望、関心をさらけ出し合わずにわかってくれとなる。
お互いに遡りあえばよいはず。でも手の内を知られているので妻には使えない。笑。
みんなが納得する欲望・関心はあるだろうか?
それを叶えるための教育ができたらいいのにと考えたとき、人間的欲望の本質は自由であるとなる。
一万年前、定住、農耕、蓄財から、普遍戦争状態へ。
定住するから戦争が始まる。
離れられない。
現代は、警察、司法が整っている。子連れて公園に行っても安心できる。
ただ、昔はそうではなかった。
殺られる前にやってやろう。部族単位になり、集団単位になると戦争になる。
なくなるためには、誰かがてっぺん取るしかない、統治状態になるから戦争はなくなる。
人間の歴史、教科書はずっと戦争をしている。
力づくではなく、みんなの合意で覇権を取ることが大事。
統治されると、2%の貴族しか自由がない。
ルソーが唱えたことは、対等な市民であると認め合おう。市民社会。民主主義社会の土台になっている。
思想の大革命。ここからフランス革命が起こり、現代の民主主義社会になった。
自由の相互承認の原理。
「全ての人が対等で自由である」
現代の民主主義社会の本質。自由の相互承認を原理とした社会である。
なぜ、人間だけが戦争をなくせないのか?
自由を巡る命の奪い合いだけではなく、
お互いの自由を認め合おう。
お互いの自由を調整し合う。
市民社会の根本原理。
ありがたく奉るものではなく、テーブルの上で置く営み。
稟議しあい、丸裸になってみんなで検証することが大切。
多くの人に吟味してほしい。
どうすれば、自由の相互承認に基づいた社会が作れるのか?
法律、教育、福祉
実際に自由に生きるためには力がいる。
生きたいような生き方をするには、読み書き、運動などの能力がいる。
憲法によって、お互いの自由ができますよと言われても、感受性が育まれていなければ意味がない。
全ての人に、自由の相互承認の力を育む。
しかし、教育の力が及ばない部分がある。
福祉、自由を得られない市民に福祉行政が最後の砦となる。
福祉行政で自由を得られる仕組みを保障する。
戦争は激減しているのに、今は暴力的な時代だと思われている。
ピンカーの暴力の人類史を読んでみる。
どれくらい暴力が減っているか見ると、ものすごい暴力が減っている。
我々は日々暴力の中を生きていた。
残酷な拷問、こういう残虐なことは当然だと思っていて、ローマの殺し合いを見世物だと思っていた。
いまからしたら驚きであるが、精神の大革命が起きた。
自由の相互承認を知ったから。じわじわ広がって、何よりも教育の力で自由の相互承認を現実のものにしようとしてきた。
みんなおんなじ人間なんだという感受性を持っている。
わずか200,300年前にはこんなことを思っていなかった。そんな時代を生きていた。
奴隷なんてとんでもない。拷問なんてありえない。感受性レベルで変わったんだ!
では、自由の相互承認の感度は、どうすれば育めるのか?
不登校、いじめ、体罰、小1プロブレム、落ちこぼれ、吹きこぼれ、同調圧力、空気を読み合う人間関係…。
学校は、すでにシステムとして機能していない。
確実に、20年後には全く違う学校システムが立ち現れてくる。
いまの制度の中でもできるし、どんどん変わっていく。
公教育の構造転換は、すでに世界中で始まっている。まず走ることから。
人間が作ったシステムだから、人間が変えられる。
【パネルディスカッション】自由の相互承認の感度を育むために、『学び合い』でできること
・多様な子がいて、折り合いをつけること
誰と関わるか、が子どもたちに決定権がある
心地よい関係を作ること
相互承認をする機会をより多く持てるようになるのではないか。
・『学び合い』では、なんでも自由にやっていいんじゃないかな?
と思われがちだが、なんでも自分がやりたいことをやっていいわけではない。
自己承認が必要。一定のルールがある。
・折り合いをつけるときも、失敗するときもある。
任せて自由にしているが、ルールはどんなものがあるのか?
誰一人見捨てないというルールを語って言い続ける。
・学び合いで学んでいるのは教師。
子どもを見取ることで教師の感受性が変わっていく。
・感受性の本質ってなんだろう?
教育の基本は、信頼して任せて支えること
youやっちゃいなよ、でいい
・あれダメ、これダメ、教育現場が何をやっているんだろう?
安心して失敗できる環境を整えることが大事。リスクを冒させないようにしてしまう。
学び合いの実践現場では、あるべき感受性が育まれるということではないか?ということ。
・子どもが学習ができなくて泣いているときがあって、声をかけないでくださいと周りの子に言われた。
・特別支援学級にいる子どもも、一緒に学ぶことができるという確信が持てたこと。
障害が診断で下りたから、ではなく課題が違っても全員ができるようになろうという子どもたちの考え方があればいろいろな立場の人が同じ場所で学ぶことができるのではないか。
・『学び合い』の最大の魅力の一つは、多様なメンバーでの学びが進むこと。学年学級制で、いろいろなものを分断してきた。
学校種、学年、性別などで分けてきた。学び合いでは、多様な人々と学びあえる良さがある。
多様な集団であるからこそ、学び合いが成立する。
・特別支援学級の子どもたちと、大学生や中学生と学んだりして、出会いを多くしている。
語る時に、自分の感じたことを語っていいんだということ。
・カリスマ教師を目指していた。学校中の悪い子が自分の言うことを聞いた。でも、限界が来た。
『学び合い』で、生徒みんなが見捨てなくなった。支援級の生徒と一緒に修学旅行に行った。それをみて教師の自分が感動した。
そういうのってできるんだなと、「自由」の意味を思い出させてもらった。
・若い人は、自由にピンとこない。
いま、自由であることの苦しみを抱えている。
・先進国は、長いトンネルの先に出ていて、自由であることに苦しんでしまっている。
自由の相互承認は、もう後戻りはできない。
長いトンネルはどんどん短くなっている。
自由の相互承認のありがたみ、憲法のありがたみを感じにくい。
自由という言葉に震えられる。
『学び合い』は、同調圧力を使えてしまう。
映画のthe waveを思い出してしまう。
いじめの子がヒットラー状態ではいじめられなくなる。でも、この状態をやめようとなれずに自殺してしまう。
・人間関係の流動性、多様性を担保することが大事。
どこかに、価値観の合う人が出てくる。離れる自由があること。
・小中高では優等生、大学に入っていざ自由、自分が何したいかわからず虚しさがあった。
ゼミに入ったらみんな自分の関心があって、面白い。
普段固まった仲良しでは達成できない課題がある。
これ、どう解いた?という流動性が高まる。
何していいかわからない、何をしたいのか、何が嫌いなのか、自分自身を理解できる機会を持てているのかな?
・自由な環境の中で不自由なのでそこから自由になりたいと考えている。
自己了解が必要、他者了解、共通了解が必要。
自分の欲望はどのようなものなのか?欲望と折り合いをつけることが大切。
何をしていいのか苦しい。
むしゃくしゃしているのは、自分と折り合いがついていない。
何だ自分、こんなことがしたいんだ!と自由にめがけて努力することができる。
他者とのコミュニケーションが取れる、価値観、感受性を交流してみると自分が見えてくる。
他者関係の中で自分を了解していく。
なんだ、人生、社会は悪くないなとコミュニケーションが取れるようになる。
・よくわからんけどイライラしてる子、うつ伏せになっている子も、自己理解への営みの表れでもある。
やりたくない子、イライラしている子に、自分の欲望を知り感度を高めること。
子どもが暴力的。何か欲望が溢れているがわからない。
徐々に言葉を知る。言葉にできる。コントロールできるようになる。
たっぷりコミュニケーションの機会がないと、語彙がたまらない。欲望と折り合いをつけていく経験が大事。
質疑応答で…
・いま、日本社会は自由なのかな?選べるのかな?という疑問に対して
<苫野先生>
哲学者なので、1万年くらいのスパンで考えている。(!)
自由というのは、社会、自由経済があるから。ピラミッドの下にいた人がここで作ったものを他で売ったら売れる!
俺たち自由なんじゃない?となる。
自由経済で、格差と勝ち負けが生まれる。格差をなくすために、国家が自由になるために、世界的な流れで画一的に染まれというグループと、勝ち組になれという自由な人が出てきている。
現代は、私達の知らないフェーズになっている。
保守的な発想、勝ち組となって自由を謳歌しろという二極化が起きている。
孤立した世界に閉じこもっていることが、不自由さを生み出していて、苫野先生、学び合いが切り込んでいくんだなと感じました。
自分はバトンをもらっている。
哲学と経済学を融合して、60歳くらいには新しい原理を出していきたいと考えている。
考えれば答えが出てくるという確信を持っている。
自分が無理でも、次の世代にバトンをつないでいくという考えがある。
この私の問題をどうすればいいのか?神経症もかかえて、躁うつ病も持っていた。毎日思っていた。この私から逃れられなかった。
哲学によって自分の問題を解いた。
自分は社会とつながっている、社会の問題とリンクしているんだ、自分のことを考えていると、苦しむ。
自分の問題だけで苦しまなくなる。社会との関わりで解いていこうという気になった。
苫野先生の講演を聞いて
苫野先生が考えている時間のスパンの長さに唖然としました。
多分、倫理の教科書の思想史に載っちゃう先生なんだと確信しました。
そして、自由の相互承認問題。
職場では、苫野先生の本を読んでいる教員が何人もいます。
いま新しいカリキュラムを作ろうとしている時に、校則を守らせきるか(いま、守らせきれていなくて校則を破る生徒が教室に半分くらいいる)、校則を無くしてしまうか検討中なのです。
可能であれば、校則を無くしてしまいたい。
桜丘中のように、校則を指導したり守ったりするエネルギーをより学びに使えるようにしたい!
と思うのですが、校内では
「自由の相互承認」
が教室内で保証されておらず…という状態です。
衝動性が高く、目の前のやりたいこと(スマホ、化粧など)に心が奪われてしまう。
ルールを破る子が目立つし、先生もそちらに力を入れてしまう。
派手目な生徒が教室でワガママになり、地味な生徒は我慢している。
真面目な子がバカを見るような、教室内で人権が保証されていないならルールは守らせる方向性に向かっています。
ルールを守らせきらないと、学校が考えるような「学び」に気持ちを向けるのが難しい生徒が多い印象です。
午後の対談の様子は、ツイッターにまとめられていましたのでよろしければご覧ください。
#学び合いフォーラム が人生初登壇。ド緊張だったけど
— キタエリ@8/24『学び合い』奈良の会 (@nara_manabiai) 2019年8月4日
会話の流れをこんな風にまとめていただいて、短い時間ながらもお役目をいただけてよかった!とホッとしました。
これからも自分「たち」にできること、やっていくぞ॑⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝⋆*
次回は奈良の会8/24(オンラインもやるから来てね) https://t.co/vLo2zYoOeh
グルメ・宿など
福岡駅周辺の観光メモ。
福岡空港のラーメン滑走路では、各地方のラーメンがいただけます。
豚骨だとおもって食べたラーメン、本店が歌舞伎町だった…。
8月2日の昼間、この日は猛暑日の37度…酷暑の中を歩き回ったのでかなり体力を消耗しました。
太宰府天満宮では、学問の神様と言われる菅原道真が祀られてるということで、今年中学校3年生になる息子の進路と、今担任している高校3年生の進路決定を祈願して絵馬に初めて願い事を書きましたよ。
こちらは、水みくじ。
九州国立博物館では、アジアと日本の交流をテーマに、縄文時代から江戸時代まで使われた土器や陶磁器、道具などを展示しています。
九州も古墳が多いんですね!初知り。
大宰府天満宮の参道を1本外れたところに入口があるので、セットで見学するのが良さそうです。
天満宮に行く参道では、名物の梅が枝餅と抹茶をいただきました。
梅が枝餅も冷たい抹茶もとても美味しかったのですが、抹茶に浮かぶ氷が飲む時に口のほうによってきてこぼしてしまい、服が汚れてしまいました(泣)。
福岡空港から大宰府までは地下鉄と西鉄線を使い到着したのですが、帰りは博多駅のバスを利用してみようとチャレンジしました。
バスの中の冷房の効きが悪く、汗だくで立ちっぱなしの40分間でした…。
前泊の夜は、『学び合い』フォーラムのサポートセンターとして15回ほぼ皆勤で参加しているすみちゃんと夕飯を頂きました。
福岡在住の友人がオススメのお店を紹介してくれたので、博多の美味しい食事にありつけることができました。
博多名物屋台も見学!
当日の夜は、福岡在住の友人と夕食を。
次男が生まれた頃に知り合って早13年!悩みや関心などもかなり変わり、お互いいい感じに年を取ったことを讃え合いました〜。
がっちりマンデーで紹介されていたご当地アイスのムース。
福岡の人は給食の味ということで、懐かしく思う食べ物のようです。
今回泊まったホテルは西鉄ホテルくルームという、博多駅前にあるホテルです。
ロビーは落ち着いた椅子やスペースがあり、部屋も大変清潔、しかも大浴場や露天風呂もあり大満足のホテルでした。
以前は、宿泊先を二段ベッドのドミトリータイプのホテルにしてしまい、若者が夜遅く戻ってきたりする音でほとんど眠れなかった記憶があります…。
それ以降、宿泊先はシングルでしっかり寝られる、ホテルに泊まるようにしています。
まとめ
今回も、人との出会いに感謝するセミナーでした。
昨年の『学び合い』フォーラム以降、Twitterでお知り合いになった先生とも直接お目にかかることができました!
苫野先生の講演会を聞いている間、私はノートパソコンで概要を打ち込んでいたのですが、それをたまたま目にした近くに座っていた女性が講演会の後話しかけてきてくださいました。
ライターか編集者、出版関係と思われたようですが、とりあえず「ただのしがない教員です」と答えておきました。
声をかけていただいて、名刺をお渡して何度LINE交換までさせていただきました。
その方は福岡で、子どものための居場所フリースクールを主宰されているとのこと。
自営業の方はどんなチャンスも無駄にしない、とにかく声をかけるということを信条としていらっしゃることが多いのかなと感じました。
普段は周囲にガンガン声をかけるタイプではありませんし、日常では知らない人に声をかけるのは恥ずかしいと思ってしまうことがあります。
しかし、私が最近好んで聴いている、勝間和代さんのYouTubeでも情報は必ず人が持ってくるという動画を見て本当にその通りだなと感じました。
本が持ってくることも多いですが、その人が感じた経験、一次情報にかなうことはありません。
だいぶ私も歳を重ねてきたので、もう少し周囲に図々しく話しかけてもいいのかしらと思うようになりました。
普段、「人に迷惑をかけないよう」にと思って生きていることが多いので、もう少し周囲に頼ったりしていくすべを身につけて行ってもいいのかも。
『学び合い』のフォーラムは、生き方自体を変えてみようかな?と思うような旅でした。
苫野先生の講演は、この本にだいたい書かれています〜。
ではまた☆